第2次世界大戦中の日系人強制収容の不当性を訴えるも、政府の命令に背いたとして1944年に有罪判決を受けた故フレッド・コレマツ(是松豊三郎)氏が、83年11月10日に有罪判決無効を勝ち取ってから40周年を記念する祝賀会が10月21日にサンフランシスコ市内ホテルで開催された。フレッド・T・コレマツ研究所が主催し、デール・ミナミ氏らコレマツ氏の無償弁護団の元メンバー、再審への道を開いた「決定的証拠」を国立公文書館で発見した法学者、弁護士でカリフォルニア大学サンディエゴ校政治学名誉教授のピーター・アイアンズ氏、コレマツ氏の有罪を覆す判決を下した連邦地方裁判所元判事のマリリン・ホール・パテル氏らが出席した。
44年のコレマツ氏対米国の裁判は、米最高裁史上最悪の判例のひとつと言われ、米政府が日系人強制収容を正当化するために法廷を欺いたという事実を広く知らしめた。83年の再審に際し、訴訟の取り下げを条件に恩赦を申し出る司法省に対し、コレマツ氏は「犯した過ちに対して、日系人に恩赦を求めるべきは政府である」と、毅然とした態度を貫いた。
2005年に86歳で他界したコレマツ氏は生涯活動を続け、98年にクリントン大統領(当時)から民間人としての米国最高の栄誉である大統領自由勲章を授与され、10年にはカリフォルニア州がコレマツ氏の誕生日である1月30日を「フレッド・コレマツ・デー」と制定、米国で初めてアジア系アメリカ人にちなんだ日となった。
コレマツ氏の娘でコレマツ研究所の代表を務めるカレン・コレマツ氏は、「特にこの国の分断が叫ばれている今、私たちが変化をもたらすことができることを人々に知ってもらうことはとても重要なことです。父は人生を、自分の物語を伝え日系人の強制収容のようなことが二度と起こらないよう、歴史が繰り返されるのを防ぐことに捧げようと決めました」と述べ、正義を求め声を上げた父の遺志を引き継ぐことの大切さを語った。
アイアンズ氏は、「私たちの制度の根深い人種差別的な基盤に挑戦することなしには、いかなる進歩も達成もあり得ない。前進するためには、それに向き合い対処する、それ以外に方法はない。日系人強制収容はその一例です。私たちがしなければならないことは、トーマス・ジェファーソンが言ったように、永遠に警戒し続けることなのです」と述べた。
コレマツ氏の闘い:
1942年2月に大統領令9066号が発令、12万人以上の日系人が強制収容されたが、オークランド生まれの日系2世、当時23歳のフレッド・コレマツ氏はそれを拒否。まぶたの整形手術をし、スペインとハワイの血を引くクライド・サラと名前を変えて過ごすが同年5月に逮捕、9月に軍命令違反の罪で有罪判決を受けた。差別的な有罪判決は違憲であるとし連邦最高裁判所まで上告したが、44年12月、収容は人種差別によるものではなく、日系人が諜報活動を行っており、不忠実になりやすいと正当化され、収容は「軍事的必要性」と判断された。戦後もこの有罪判決はコレマツ氏に影響を与え続け、就業の障害にもなった。
80年代になり、カリフォルニア大学サンディエゴ校のピーター・アイアンズ政治学教授は、研究者のアイコ・ハージッグ・ヨシナガ氏とともに司法省の秘密文書を発見、連邦捜査局、連邦通信委員会、海軍情報局などの情報機関が日系人の諜報活動を否定していたこと、これらの公式報告書が連邦最高裁に提出されず隠ぺいされていたことが判明した。83年、有罪判決が覆された後、コレマツ氏は米国政府の日系人への公式謝罪と、強制収容の生存者に補償を認める法案の可決に向けたロビー活動に参加。88年、レーガン大統領(当時)は救済と賠償に関する法律に署名、過ちを認め謝罪し1人2万ドルの賠償金が支払われた。
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